【姓名判断の仕組みと矛盾】 
 (5)人心を惑わす画数の迷路

 産まれて来た(来る)赤ちゃんによい名前を付けてあげようと、意気揚々と本屋さんを訪れ、「幸せになる○○○」とか「○○○名づけ大事典」とか、名付けの参考になりそうな本をパラパラとめくる。姓名判断に関する書籍が並んだ棚に手を伸ばし、「やっぱ、日本人は漢字の画数だよね~」などと妙に納得しながら何冊かを流し読みする。あるいは、インターネットで「画数」や「姓名判断」などをキーワードにして、名付けに役立ちそうなサイトを検索する。そして気づくのです。本によって、サイトによって、画数の数え方が違うことに。

 流派による画数の数え方の根本的な違いは、新字体(普段使われている漢字の字体)を用いるか、旧字体(古くに用いられていた漢字の字体)を用いるかです。例えば、新字体の「与」「国」「寿」「恵」「実」「桜」は、旧字体ではそれぞれ「與」「國」「壽」「惠」「實」「櫻」で表され、当然ながら、どちらの字体を使うかで姓名判断の結果は大きく違ってきます。
 漢字の成り立ちを重視する旧字体派は、画数は略されても変わらないと考え、新字体派は漢字が略されれば画数も漢字の外見どおりに変化すると考えて、画数を数えます。これはもう、考え方の違いですから、どちらが正しいかの議論をしても仕方ありません。しかし、画数を基に赤ちゃんに命名しようとする私たちにしてみれば迷惑な話です。どちらか一方に統一してもらいたいと誰もが思うのではないでしょうか。
 蛇足ながら、旧字体のバイブルとされている康熙字典(こうきじてん)は、中国の漢字字典で、清の康煕帝時代(今から300年ほど前)に編さんされ、現在の活字体のルーツにもなっています。「漢字の成り立ちを重視するなら、殷王朝の甲骨文字まで遡らないとダメなんじゃないの?」などいう穿った意見も聞こえてきそうです。

 さて、旧字体派と新字体派の2つにザックリと分かれればまだ分かりやすいのですが、話はここで終わりません。「旧字体は面倒そうなので新字体でいこう!」ということになったとしても、私たちが普段使っている文字の中にも旧字が存在しますので、全てを新字体で扱うには無理があります。例えば、「澤」、「邊」、「濱」、「萬」、「廣」などは、現在も苗字や名に使われている旧字です。これらの名前の文字を勝手に「沢」や「辺」に変えてしまうのは問題でしょう。しかし、逆に、「沢田」や「渡辺」をわざわざ「澤田」や「渡邊」に変換するのも不自然な気がします。
 じゃ、どうすればいいのか。
 最近の姓名判断では、「名前として自分が実際に使っている文字の画数をそのまま数える」とする傾向が強くなっているようです。この場合、ほとんどの文字が新字体で占われることになりますが、名前に旧字が含まれる場合はその旧字の画数をそのまま数えます。
 「澤田さん」のサワは「澤」で16画、「沢田さん」のサワは「沢」で7画といった具合で、私たちが普段、書類に署名したり、クレジットカードを使ったときにサインをしたりする文字をそのまま使うわけですから、深く考える必要もなく、例外を設けないという意味でも合理的な方法だと言えるでしょう。

 そして、もう一つの画数の問題として、部首の数え方があります。私たちが学校で習った「くさかんむり」は3画でしたが、姓名判断の流派によっては、「6画」や「4画」と数えることがあるのです。他にも、
「さんずい」は「水」だから4画
「りっしんべん」は「心」だから4画
「てへん」は「手」だから4画
「ころもへん」は「衣」だから6画
などのように、常用漢字とは異なった数え方がされる場合があります。
 また、「々」を同一文字の繰り返しと考え、「佐々木」は「佐佐木」、「野々村」は「野野村」して扱うこともあります。さらに、数を意味する漢字はその意味を画数として、「四」は4画、「五」は5画、「六」は6画という風に数えられる場合もあります。では、百は100画で、千は1000画? いえいえ、普通に百は6画、千は3画、万は3画とする都合のよいキマリがあるのです。

 こうして、子どもの幸せを願い、よい名前を付けてやろうとする折角の親心は、姓名判断のローカルルールにもてあそばれるかのように、画数の迷路へとハマり込んでいくのです。

 新字体・旧字体の問題にしても、部首の画数の問題にしても、1画違えば天と地ほどの差がある姓名判断において、根本がこれほど異なっていては、姓名判断に不信感を抱いたとしても無理もないことです。しかし、どの流派も信念をもって鑑定を行っているのですから、未来永劫、画数の数え方が統一されることはないでしょう。



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