大人のための寓話集 by含蓄王

最後の一葉(奇跡の復活編)

命を賭して傑作を描き上げた老画家ベーアマンの運命は?


『希望、それ自体は幸福の一様態にしか過ぎない。だが、ひょっとすると現世がもたらし得る一番大きな幸福であるかもしれない。』
(ジョン・レノン)


『希望は人を成功に導く信仰である。希望がなければ何事も成就するものではない。』
(ヘレン・ケラー)


 ここ、グリニッチ・ヴィレッジにはたくさんの芸術家の卵たちが住みついています。ただ残念なことに、ここの人びとは、自分の才能に限界を感じながらも芸術から離れることができずにずるずると、芸術家まがいの生活を送っている者がほとんどのようでした。
 かれらがこの界隈に集まってくる理由は、この場所にいると芸術家っぽい雰囲気の中に自分を置くことでプライドを保てるから。そして何より、今にも崩れ落ちそうな古い建物が立ち並ぶこの地区ではびっくりするほど家賃が安いから。

 ジョアンナとスーは、三階建ての煉瓦造りの古い建物の最上階に住んでいます。彼女たちは、八番街のレストランでたまたま隣同士の席に座って意気投合し、半年ほど前からここに共同のアトリエを持つようになりました。二人は、芸術家として成功する夢を捨てたわけではありませんが、今は、雑誌小説の挿絵を描いたり、看板の下絵を描いたりしながらその日暮らしの生活を送っています。

 ジョアンナが肺炎で倒れたのは数日前、十一月に入ってすぐのことでした。ベッドに横になったまま少しも動けなくなり、食事もとろうとせず、窓ガラスごしに見える煉瓦造りの家の壁を見つめ続けるだけになってしまいました。
 往診に来てくれた医師がスーを廊下に呼び、ジョアンナの病状を告げました。
「助かる見込みは、十に一つですな。」
スーは唇を噛んでうなだれます。
「そんなに悪いんですか。」
「いや、治らないと言っているんじゃないんだよ。ただね、『生きたい』という気持ちがまったく見られないようだから。これじゃ、どんなに良い治療をほどこしたって治るものも治らないさ。」
「生きる希望ですか。」
「あの子が何か心にかけていることはないのかな?」
「いつかナポリ湾を描きたいと言っていました。」
「絵を描きたいと? もっと心が熱くなるようなことはないのか、例えば、男のこととか。生きる気力さえ取り戻せば、望みは十に一つから三つにも四つにもなるのだが。」

 医者が帰ると、スーは自分の部屋でひとしきり泣いた後、スケッチブックを持ち、口笛を吹きながらジョアンナのベッドの脇に座りました。そして、何事もなかったかのように挿絵の仕事を始めました。
ジョアンナが窓の方を向いたまま冷たく訊ねます。
「他の部屋では描けないの?」
スーは答えます。
「あなたのそばにいたいの。」

 やがて、スーは、ジョアンナが消え入りそうな小さな声で何かを呟いていることに気付きます。
「じゅうに。」
そして、しばらくして、
「じゅういち。」
またしばらくして、ほとんど同時に「はち」、「なな」。
 何を数えているのだろう。スーは立ち上がって窓の外を覗き込みますが、ベッドの向こうには壊れかけた建物の煉瓦の壁が見えるだけ。古い壁には、冷たい秋風に吹きつけられて裸同然になったツタが絡みついています。
「なに? 何て言ったの?」
「ろく。」
「ツタの葉っぱよ。三日前には百枚くらいあったの。ほらまた一枚。もう残っているのは五枚だけね。最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に逝くの。」
「ジョアンナ、馬鹿なことは言わないで。葉っぱとあなたとどんな関係があるって言うの。」
「最後の一枚が散るのを見たいの。もう待つのは疲れたわ。あのツタの葉みたいにひらひらひらと散りたいの。あの哀れな葉っぱのように。」
スーは、いらだたしさをかき消すように、無言のまま窓の日除けを下ろしました。ジョアンナは顔を窓の方に向けたまま、力無く日除けを見つめています。

 「眠るのよ、ジョアンナ。わたし、ベーアマンさんのところまで行ってくるわね。彼にモデルをお願いしてあるの。わたしが戻ってくるまで動いちゃだめよ。」
 ベーアマンはここの二階に住む老画家で、ミケランジェロの彫刻のモーゼみたいな……そんなに立派な風貌ではありませんが、ときどき若い画家のためにモデルとなって、わずかばかりの稼ぎを得ていました。画家として成功しないまま年をとり、今は、広告に使う安っぽい絵以外は何も描いていません。それでも、「いつか傑作をものにするんだ。」というのが彼の口癖でした。
 スーはベーアマン老人に、ジョアンナの悲しい妄想のことを話しました。老人は目を真っ赤にうるませて、軽蔑と嘲笑を投げかけました。
「そんな言い方ってないでしょ。ジョアンナはね、体も心も弱っているのよ。高熱のせいでおかしくなっているのよ。もういいわ。」
ベーアマンがジョアンナのことを不憫に思ってくれていることは分かっていましたが、スーは、やり場のない悲しみをベーアマンにぶつけるしかありませんでした。

 スーがジョアンナの部屋を覗くと彼女は眠っていました。自分の部屋に戻ったスーは、いてもたってもいられず、ベーアマンを部屋へ呼び寄せます。外は冷たい雨が降り続き、雨音に混じって激しい風の音も聞こえてきます。二人はびくびくしながら窓の外のツタを見ては、黙りこくっていました。

 次の朝、病人の部屋の椅子にもたれかかって眠っていたスーが目を覚ますと、ジョアンナが言いました。
「日除けを上げて。」
スーは観念したように日除けを上げました。
「あ。」
あんなに激しい雨と風だったというのに、ツタの葉が一枚残っています。
 スーの驚きと希望をさえぎるようにジョアンナが呟きます。
「あれが最後の一葉ね。夜のうちに散ると思っていたんだけど、不思議ね。でも今日、あの葉は散る。わたしも一緒に死ぬんだわ。」
 昼が過ぎ、日が暮れるころになっても最後の一葉は壁にしがみついていました。やがて夜になり、また激しい風雨が壁を打ちつけます。そして次の朝になっても、ツタの葉はまだそこにありました。
 朝日の差すベッドで最後の一葉をじっと見つめていたジョアンナは、スーの方を振り向いて、覚悟を決めたようにはっきりとした口調で言いました。
「わたし間違っていたわ。死にたいと願うなんて、間違っていたわ。」
「ねえ、スープを持って来て。それとワインを少し入れたミルクも。」
ジョアンナは、さらに続けます。
「ねえ、スー、わたし、いつかナポリ湾を描きたいの。」

 診察にやってきた医者が、帰り際にスーの手をとって言いました。
「五分五分だな。もう少しで君の勝ちになる。これからわたしは下の階にいる別の患者を診なければならない。あの老画家も肺炎なんだよ。高齢だし、急性だし、病院に連れては行くが、かれは十に一つも助からんだろう。」

 「話したいことがあるのよ、ジョアンナ。ベーアマンさんがね、ひどい肺炎にかかってしまったの。もう助からないだろうって。二日前の朝、動けなくなっているところを管理人さんが見つけたそうよ。頭のてっぺんからつま先まで服も靴もぐっしょり濡れていて、部屋には絵筆と、緑と黄色が混ぜられたパレットが散らばっていたそうよ。」
「ねえ、ジョアンナ、窓の外を見てごらんなさい。あの最後の一葉をごらんなさい。風が吹いているのにまったく動かないわ。そうよ、あれはベーアマンさんが壁に描いた絵だったの。最後の一枚が散った雨の夜、ベーアマンさんが命をかけて描きあげた傑作だったのよ。」

(原作あらすじ ここまで)



――― ベーアマン、カッコええ! でも、死んじゃったんだよね・・・ ―――



 数日もするとジョアンナはすっかり生気を取り戻し、ベッドから上半身を起こしておしゃべりをするまでに回復していました。
「ジョアンナ、もう大丈夫ね。」
「ええ、ありがとう。明日から仕事を始めてみようかしら。」

 翌朝、けたたましいクラクションの音と階下から聞こえる大きな話し声で目を覚ましたスーは、ジョアンナの部屋に駆けつけました。
「ねえ、何があったの?」
ジョアンナは窓から身を乗り出して、あの壁のずっと東側に見える細い路地を覗きこんでいます。
「スー、あれを見て。」
スーもジョアンナの横に並んで、朝霧に煙った路地を見降ろします。路地には車が連なり、クラクションと罵声が入り乱れた騒音を放っていました。
「早く行け!」
「そこをどけ!」
グリニッチ・ヴィレッジの道路はどこも狭くて迷路のように入りくんでいます。わざわざ車でやってくる人なんていません。この周辺で車を見かけるとすれば、それは、土地に不慣れな人が迷い込んできたとき。
「まあ、車が来るなんて珍しいこと、それもあんなにいっぱい。」

 やがて、階下から聞こえていた話し声が、靴音とともに階段を上がって来て、ジョアンナの部屋の前に集まったかと思うと勢いよく部屋をノックする音が響きました。スーとジョアンナは窓から顔を引っ込めてドアの方を振り向き、顔を見合せます。
 ガウンを羽織ったジョアンナがドアをゆっくりと開けると、5、6人の男たちがどっとなだれ込んできました。大きなカメラを構えた男たちは、彼女たちに向かって一斉にフラッシュの閃光を浴びせます。ある者は彼女らに笑顔を要求し、またある者は慎重にカメラを構えて窓から見えるあの傑作を撮影しています。
「ジョアンナはどっち?」
「あの絵は本物だと思った?」
「偽物って、いつ気付いたの?」
 スーとジョアンナが状況を理解できず呆気にとられていると、男たちの間を割って、あご髭を生やした老人がぬっと顔を出しました。
「ベーアマンさん!」
「やあ、ご両人。元気そうだね。」
「ベーアマンさん! ご、ご無事だったのですか。お医者様が助からないだろうって・・・。」
「わしが死ぬって? 馬鹿なことを。この通りぴんぴんしとるぞ。」
ベーアマンは手に酒瓶を持ち、紅潮させた顔で高笑いをしています。ベーアマンの横には医者が付き添っていて、老人のこころもとない足の運びからも、彼が病み上がりであることはすぐに分かります。

 このあとスーとジョアンナは、医者から事の成り行きを聞かされます。
 ベーアマンは瀕死の状態で病院に担ぎ込まれますが、薄れゆく意識の中で医者にこう言ったそうです。
「三階の子猫ちゃんはどうなった? このやぶ医者め、ジョアンナの病気を治さないと承知しないぞ。」
 その後も老人は生死の境をさまよい続けますが、ジョアンナが快方に向かっていることを告げられると満足そうに笑みを浮かべたそうです。そして医者は、
(これで安心して旅立つことができるだろう。)
そう思ったそうです。
 ベーアマンの復活は、たまたま隣の病室に見舞いに来た新聞記者の好奇心によって始まりました。医者からベーアマンの傑作の話を聞いた記者は、本人への取材を敢行します。傑作の出来映えについて、絵画がもつ力について、芸術家の使命について。ぐったりと横たわったベッドの上で老人の目は次第に輝きを取り戻していったそうです。最後に記者が投げかけた「死んでもいいと思って描いたのか?」との問いに
「馬鹿野郎、わしはこれからいっぱい傑作を描くんだ。」
と答えたそうです。

 「最後の一葉」の話はあっという間に全国に広がり、今朝の車の行列になったというわけです。

 あれから二年。
 グリニッチ・ヴィレッジは、芸術家を志す人びとから聖地と呼ばれるほどに有名な街となりました。入りくんだ細い路地を、絵具で汚した服の若者たちが闊歩しています。あの日、一躍時の人となったベーアマンも相変わらず多忙な日々を送っています。
 そしてもうすぐ、ここの住民たちが楽しみにしている季節がやってきます。そう、秋風が吹き始めるこの時期になると、夏に生い茂っていたツタが次々と葉を落とし、あの伝説の一葉が姿を現し始めるのです。

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