大人のための寓話集 by含蓄王

蜘蛛の糸(天国と地獄を分けるもの)

人は環境によって変わり、環境に染まる。


『この世には非常に恐ろしいことがひとつある。それは「誰の言い分も正しい」ということだ。』
(ルノワール)


『我々は常に自分自身に問わなければならない。もし皆がそうしたら、どんなことになるだろうと。』
(サルトル)


 血の川に溺れる者、業火に焼かれる者。絶壁に閉ざされた地獄の底で幾多の罪人どもが苦しみもがいていました。これを天上の蓮池から見下ろしていた釈迦は、その中にカンダタという男を見つけます。カンダタは生前に悪事を尽くした極悪非道の男でしたが、一度だけ人間らしい行いをしたことがありました。小さな蜘蛛を踏みつぶそうとしたが思いとどまり、命を助けてやったのです。それを思い出した釈迦は、カンダタに向けて地獄の底へと一本の蜘蛛の糸を下ろしました。

 「この糸をつたって登れば、地獄から抜け出せる。」
 蜘蛛の糸をつかんだカンダタは、ぐいぐいと蜘蛛の糸をたぐり寄せるようにして上へ上へとよじ登っていきます。絶壁の岩肌のわずかな突起に足をかけようとしたとき、カンダタは岩肌に一匹の虫を見つけて、思わず足を引っこめました。釈迦は、ゆっくりとうなづきました。

 「もうすぐ抜け出せる。」
 しかし、ぴんと張りつめた糸は今にも切れそうです。カンダタがふと下を見下ろすと、地獄の罪人たちがぞろぞろと自分の下から続いてくるではありませんか。このままでは重さに耐え切れず、糸が切れてしまいます。
 「この糸は俺のものだ。お前たちのものではない。下りろ!下りろ!」
 カンダタがこう叫んだ瞬間、蜘蛛の糸はカンダタの手もとでぷつんと切れて、下にぶらさがっていた罪人たちもろとも地獄の池の中へとまっさかさまに落ちていきました。

 釈迦はこの光景を悲しそうに見ていました。(ああ、お前に人を思いやる気持ちがあればそこから抜け出すことができたのに。)
 カンダタは悔しがります。
 「カンダタよ、先ほど虫を助けた心に免じて、もう一度だけ情けをかけてやろう。」
 そう言うと、釈迦は再び蜘蛛の糸を地獄の底へと垂らしました。「俺が先だ」「いや、俺が先だ」、一本の蜘蛛の糸に向かって罪人たちが群がります。
 「待て、待てっ! 一度に大勢が登ったら糸が切れてしまうぞ。」
 罪人たちはしばし互いに顔を見合わせて様子をうかがっていましたが、すぐに順番を争って殴り合いを始めました。カンダタも負けてはいません。糸をつかんで登ろうとする男を引きずりおろして一撃を喰らわせます。

 そこに釈迦の澄みわたった声が響きました。
 「お前たちを地獄に送った私の判断は間違っていなかったようだ。人を天国と地獄に分けているのは、育ちの良し悪しや言動の美醜ではない。欲望のあるなしでもない。金銭や名誉への執着のあるなしでもない。煩悩は生きている人間に課せられた試練にすぎない。煩悩を通して学ばなくてはならないのは、人を傷つけないこと、人を思いやる心なのだ。善人と悪人とに分けるのは、自分自身を愛するのと同じ気持ちを隣人に向けることができるかどうかなのだ。」
 地獄の底に一瞬の静寂が訪れます。
 「お前たちが地獄に落ちたのは、生前に悪業を行ったからではない。死の間際まで悪人だったからなのだ。そして今もなお悪人であるからそこに居るのだ。」

 悲しげな表情を浮かべて蓮池から去ろうとする釈迦・・・でしたが、何と、釈迦は不覚にも足を滑らせて地獄の底へと落ちてしまったのです。
 蜘蛛の糸をめぐって地獄絵図が繰り広げられる中、釈迦は自分が垂らした蜘蛛の糸へと慌てて駆け寄りますが、そこには既にたくさんの罪人たちが群がっています。
 「ま、待て、私は誤ってここに落ちてしまったのだ。すぐに戻らなければならんのだ。」そんな言葉が罪人たちに届くはずもありません。もみくちゃにされながら、釈迦は大声で叫びました。「お前たち、どきなさい! まず私が上がってから順番に登ってきなさい。」
 釈迦が蜘蛛の糸に向かって手を伸ばしたそのとき、蜘蛛の糸はすうっと消えてなくなりました。

 罪人たちが釈迦の周りをぐるりと取り囲み、にたにたと笑っています。そして、次々と罵声を浴びせます。
 「自分自身を愛するのと同じ気持ちを隣人に向けるだぁ?」
 「人を思いやる心はどうしたんだよ?」
 「俺たちはな、好き好んで人を傷つけてきた訳じゃない。そうする以外に生きて行くことができなかっただけだ。そういう状況に置かれていたんだよ。」
 「きれいごとばかり言ってんじゃねーぞ。人のことなんか考えてたら生きちゃいけねぇんだよ。俺たちの気持ちが少しは分かったか?」
 「お釈迦さんよぉ、今日からあんたも俺たちの仲間だ。仲良くやろうぜ。そのうちまた誰かが蜘蛛の糸を垂らしてくれるさ。ま、最初に登るのは俺だけどな。」

大人のための寓話集